「思い出したくない。涙が出てくるから」
沖縄県南城市に暮らす金城恵美子さん(92)は、そう繰り返す。
沖縄戦のさなか、「集団自決」を姉とともに生き延びた。深い傷を負って苦しんだ姉の無念を晴らしたいと、2012年に沖縄戦の被害者や遺族たちが起こした国家賠償請求訴訟に参加したが、結果は敗訴。18年に最高裁で確定した。
「裁判所は、被害者の味方はしてくれなかった」。落胆は大きく、関連の資料も全部捨てた。
- 沖縄戦のトラウマ、なぜ年月を経て発症するのか 精神科医に聞く
生まれ育ったのは、那覇市の西約20キロに浮かぶ渡嘉敷島。父は働き者で、半農半漁で生計を立て、生活は豊かだった。瓦ぶきの大きな家で、祖父、父母、7人きょうだいの10人家族で暮らしていた。
しかし、戦況が悪化すると、父は「防衛隊員」として現地召集された。家の8畳間は日本軍に徴用され、8人の日本兵が生活していた。
1945年3月23日、米軍による島への砲爆撃が始まった。集落の裏山にあった防空壕(ごう)に家族で避難したが、さらに艦砲射撃が激しくなり、2日後には、動くことを拒んだ祖父を残して山の中に逃げた。
米軍は27日に渡嘉敷島に上…